prisoner of society

 

 

容姿。それは単なる人と人を区別するシンボル

 

もはやそれだけではない。

 

みんな自分を見いだすアイテムとして、積極的に活用している。

 

みんな自分が分からない


生産が過剰で消費の蔓延と停滞を繰り返している現代社会。

 

一体、一日に何人の仮初の優越感を、SNSで眺めたのだろう

 

そこにおける容姿は唯一無二

 

個人としての存在を分かりやすく示す

 

今では立派な、他に代え難い価値のある商品。

 

それまでは理解できなかった。

芸能人さながらに自撮りを載せまくる

一般人のことが。

 

今となってはよく分かる。

 

誰かから愛されたい。

生きてていいんだって、自分の生きる価値を証明したい。

 

かくして自撮りに取り憑かれる。

 

あくる日もあくる日も果たせない自己実現

 

懊悩煩悶の日々

 

次第に実生活から絶縁して、生活というものを忘れてしまったらしい

精神的に跛行していた


「消えたい」

 

もし今目の前で、スマホを、SNSを取り上げられたら、何を準拠にしたらいいか、何を愛し何を軽蔑したものか

 

一切がお先まっくら

 

でもこれ以上、偽りの私をSNSに載せなくてよくなるなら、それでも。

なんて夢物語。

 

みんな誰かにアピールしている。

 

自撮りが得意じゃないあの人も、他の方法でアピールしている。

 

好きな映画や漫画、音楽やファッションなんかをSNSに載せてアピールしている。

 

アピール

アピール

みんなでアピール

誰もが自身の存在を肯定してもらおうとして

誰もが自身の存在を否定している。

 

 

「これが私の好きなものです」とSNSに載せたもの

 

それを好きになったきっかけなんて、大半が時代の流れの中の事由

 

本音を言うと別に好きって感じてない

 

時代の中の流れ

詰まるところ"流行り"

 

無意識的に流行りを追いかけている。

 

今まではそれで良かったのに、

無意識的に生きていると足元を掬われるようになった。

 

自我を見失うのと引き換えにして、好きなものを与えてくれている

 

もし流行っていなければ、もし大々的にメディアに出ていなければ、今好きになっているものの存在なんてきっと知らない

 

自分が本当に知りたいことはインターネットでいくらでも調べられる便利な時代

 

にも関わらず、

 

自分の知りたいという探究心を全てメディアが見せる狭い範囲にお任せしている

 

奇異な状態に見舞われている

 

感じることそのものが後回しになっている

 

そうして「私」が時代の流れの中に葬られた

 

日々自分なりに物事を捉えて、感じて、自分らしく生きていくというのを無意識的に放棄するような形となって、やがて何らかの知覚をもたらした

 

それが正体不明の違和感となって、ストレスとして現れた

 

うざい

 

なんか生きづらい

 

生きていることそのものをつらいと思うなんて、死んでいるのと一緒じゃん。

 

それでも肉体は、「生きている。」と言うんだろう

 

魂が「死んでいる。」

 

日々生活していく中で何かを感じている

それを詳しく知りたくて、答えを見つけるために、SNSを閉じて、ひたすらネットの中を走り回った。

 

走って走って、その中で出会ったもの、響いたもの、これだ!って感銘を受けたもの

 

これがそうだったんだ

 

これが、心からの好きだったんだ

 

見いだせなかった自分の本質

 

いつまで経っても本当の自分が分からないまま、心を病ませるSNS依存者

 

今も時代の流れの中を無意識的に生き続けるメディアの言いなり狂信者

 

極々自然に、流行という時代の作る流れに身を任せるように仕向ける巧みな殺戮社会

 

自分がいて社会が成り立つ?

社会があるから自分が成り立っている?

 

その問いに即答できないくらいに

当事者意識を喪失させていく社会人

 

まるでゲームの中の主人公みたいに

 

コントロールされている時だけ動くことを許されたかのように自由意思が不在している。

 

コントロールされなくなると忽ち棒立ちを余儀なくされたかのように、時には足だけが空転して障壁する物にぶつかり続けている

 

あゝなんて哀れな実情

 

哀れな主人公に魂の救済を。

 

意思が自分を起点としていない。

自分の行動の決定を自分で考えているつもり

だったけど

ある程度選択肢が用意された中で、選び取っているだけでしかない。

そう理解した

 

「シナリオ通りに進む人生に、果たして自分らしさなんてあるのかな?」

 

聞いてもみんな知らんぷり

 

みんな何者かに動かされていて、

言っても本人には届いてないみたいに

 

まるで知覚できないように事前にプログラミングが施されているかのよう

 

行動の選択を、好きか嫌いかの感情の動きを、全部自分の意思でコントロールしていると錯覚させているなんて、グロいことをするね

 

そんなことは露知らず、今日も能天気に自撮りや好きなものをSNSに投稿して、自分のあってないような存在を、これまたあってないような存在にアピールしている

 

どこが現実世界でどこが空想の世界なのか

その境目を知りもしないで

 

自分本来が感じるはずの、自分だけの好きや嫌いといった感情が、社会全体の感じている好きや嫌いに飲み込まれている

 

もみくちゃな世界

 

本当は疲れてるし休みたいけど、プレイヤーがひとたびコントローラーを握れば意思とは関係なく、まるで意思などないかのように、言いなりになって動かなければならない世界

 

アナタは非常に狡猾な社会

 

よくも、何ら疑問を持たせず、鮮やかに"私"に成りきらせることを可能にさせてくれましたね。

 

よくも騙されることを平気で受け入れるようにさせてくれましたね。

 

実質もうこの世界に個性など存在しないって言いたいのでしょうが、そうはいかない。

 

だって神様が教えてくれたから。

容姿だけは、誰にも取って代わることのない大事な大事な個性だって。

 

神様は言った「全て一点一点手作業で丹精込めて創り上げました。同じ顔などこの世界に一つとしてございません。」

 

私は確かに此処に居るという、唯一の存在証明。

 

その為の自撮り。

 

けど、自撮りを投稿し続けても待っているのは、

実生活からの絶縁。

生活そのものを見失って、精神を潰していく

 

追い打ちをかけるように「何の努力をせずとも自撮りだけで絶賛を得られるなんて、クレオパトラ楊貴妃小野小町くらいなものです。諦めて自分を押し殺しましょう。」と社会が囁く

 

負のループまっしぐら。

 

普通に生きたいだけなのに。

 

マトモに穏やかに、肉体も精神も常に健康を意識した生活を送りたかった

 

生きることは喜びなんだって自分の意思で感じたかった

 

自撮りもせず、流行りにも乗らなければ良いなんて、もうそんな単純な話じゃない

 

流行っているものは意識しなくても目に入ってくる

 

根本として流行るってことは、一般的に見て誰しもが好感を持てるもの

 

条件反射で、無意識的に好きになっている

 

興味を示さないようにするのは至難の業

 

流行りを全てシャットアウトしてしまうと話題に入れなくなる

 

かえって自分の存在を否定されたように感じてしまう

 

本当の自分を知って、本当の自分で

自分の存在を肯定されたい

 

それなのに

 

生産が過剰で消費の蔓延と停滞を繰り返しているSNS社会

 

その中での「私」の自撮りは

陳列された商品の一つでしかない

 

いいね、ハート、グッドボタン。

フォロー、コメント、リツイート

不特定多数からの評価至上主義。

 

自撮りを褒められたって

ちっとも嬉しくなんかない

 

そういう見え透いた誰かからの反応は

「私」にだけじゃない

日に何度も何度も大量のSNS投稿者に、同じようにして何らかの反応を付けている

 

「私」はアナタを見た

だからアナタも「私」を見てくれとでも言うように

心からの評価ではない反応は響かない

 

誰からも反応されなければ

自分はこの世に生きる資格がないとでも?

 

ないものねだりをやめれば

此処にいても赦されるような気がして

「私」は自撮りをやめる

 

「私」は誰?

アナタも誰?

知りたくないから知らんぷり

今日も私は社会人

 

そんな腐り切った世界に、一石を投じてよ愛。

 

 

十年桜

 

 

俺は超が付く程のアンチSNS人間也。

BeReal?ナニソレオイシイノ?

 

そんなSNSも使い方によれば自分の世界を限りなく開く魔法の扉に様変わりさせるんだってね

 

良くも悪くも。

 

どんな年代のどんな人種ともあっという間に繋がれて、いきなり知り合いのように話せて、その繋がりを短時間で何十人と増やすことができる。

 

リアルだとそうはいかないんだからSNSって凄いネ!

 

リアルの場で話すとなると、たった1人でもその人のこと知ろうと思ったら何十分もかかる挙げ句、全然仲良くしたいと思わないタイプの人だった、なんてざらにある

 

違う世代の人、違う国の人と話そうと思ったらまず探すところから始めなくちゃナラナイ(~_~;)

 

ところがSNSはわざわざ話さなくても投稿してる内容でなんとなく自分と感性が似てそうな人が手っ取り早く見つかるから便利!なんか勝手におすすめもしてくれる!時間効率◎

 

ケド、それに伴う弊害というか、

 

貴方だから、貴方と話がしたいんです。他はどうでも良くて、貴方と仲良くなりたいんですってのが感じにくいし伝わりにくい。

 

1人の人間として固有的に見られてるんじゃなくて、まるで膨大な数ある無数のデータの中の画像の1つとして処理されてるような、

 

イメージとしては、何となく自分の写真フォルダーを見返してて、シャーッとスクロールして、偶々目に留まった写真を見る時みたいな感じで、別に最初からその写真が目的じゃなかったけど、気づいたらほぼ無意識でその写真を見てた時のアレ

 

なんかそれが自分の中で凄い変な感じで、SNSで話してると人間と人間じゃなくて、機械と機械が話してるように感じる。

 

俺はそんな人の温かみを感じない使い方が主流になってるSNSがダイキライ

 

俺なりに思う、良くないSNSの使い方ね。

 

 

どうせこの人も同時並行で何十人とメッセージを送り合って、数打ちゃ当たるで遊びまくってるんだろうなぁとか考えだすと俺は貴方のこと知りたいから、本当はもっとキチッとした話がしたいんですって気持ちに虚しさを覚えて、メッセージを送る気力を失っていく。

 

だって、誰に何を話したかなんてイチイチ覚えてないんでしょ

 

自分の存在を肯定さえしてくれたら誰でもいいから。

 

「繋がりたい」なんて言うけど寄り添い合える仲間が欲しいわけじゃないんでしょ

 

誰か1人を決めて、その人とだけ親密になろうなんて気、最初からないくせに。

 

言い寄ってくるのは大抵が本音を隠して取り繕ったご機嫌取りしかいないはずなのに、チヤホヤされてると勘違いして、気持ち良くなっちゃうのもうやめようよ。

 

そんな簡単にはやめられないか。

 

コスパ高すぎるもんね。

1人の人間を信用して愛し続けても、いずれ裏切られるかもしれないって考えると。

 

人には人の考えがあるし、他人に迷惑さえ掛けなければ自分の自由に好きなように望んでることをすれば良いと思うから口出しはしないけど、

 

どれだけコスパ良くてもそんな生き方、俺には耐えられないな。

 

上手く言い表せられないけど、自分で自分を裏切ってるみたいで。

 

だって、持て余した暇を一過性の人間関係で潰したとしても心から楽しめるわけないし、後に残るのは寂しさだけであって、良い出会いだったなんて思えた事なんか一度もないって過去に痛いほど実感したから。

 

 

SNSのせいでいつの間にか人間関係まで消費する社会が当たり前になった気がする。

 

そう嘆いてる俺の方が不健全なのか?ってくらい、恥ずかしげもなく初対面の異性と手を絡める社会が当たり前になりつつある世の中に吐き気がする。

 

性欲にかまけて脳死した人間の無味無臭の文、そこに個性など微塵もない

 

文面だけじゃ誰が誰やら分からない定式化された噛み砕き甲斐ない会話で気が合うかどうかなんて分かったもんじゃない

 

片っ端から都合良さそうな人間にだけ連絡とって、タイミングが合えば会うみたいな、そんな刹那的な出会いをするくらいなら、俺は最初から誰とも出会いたくなんかないね

 

人間はシェアリングサービスじゃないんだからさぁ、必要な時だけ利用するみたいな接し方やめようよ。

 

人間はモノじゃないよ、所有できないよ。

 

 

なんてお高くとまっちゃって、そんなんだから俺はネッ友が1人も作れないんだよバカ。

 

 

まぁ、実際SNSの出会いから何年も付き合っていける仲まで発展していくのって相当難しいと思ってる。

 

薄っぺらい内容のメッセージだけじゃ親睦を深めるなんて土台無理な話なのに、どうしても深い話がし難い環境になってるから。

 

SNSでプライベートな深い話をしたがる人がどれくらい居るのかまでは分からないけど、

 

SNSに巣食う人間なんて殆どが自分の身を嘘と理想で塗り固めた虚構の偽りの姿だから、本当の自分を見せるのをめっぽう嫌がると思うんだよね。

 

SNSの魔力にアテられた人間は、潜在的に私は完璧に素晴らしい、魅力に溢れた良い人間ですっていうのを自己主張したくなってしまうから、極力本心で話すのを避けるようになってくる。

 

だから腹を割って深い話をしたがる人なんて滅多に居ないと個人的には思ってる。

 

 

それとも実はみんな自分のこと積極的に話したいし、人の話も聞きたいけど、プライバシーの侵害がどうちゃらこうちゃらとかで言うに言えない、聞くに聞けないで畏まっちゃうとか?

 

ちなみに俺はここで共感生羞恥心あるだろうなっていう誰得話をこれでもかってくらい赤裸々に語ってるから分かってくれると思うけど、プライバシー云々は一旦置いといて、自分に正直に思ったこと感じたことを伝えたいし聞きたい派

 

だからちょっと個人的な部分を聞いただけで、はいそれプライバシーの侵害でーすって言うのはちょっと違うんじゃない?って思ってる

 

こっちは単純に仲良くなりたいから話を広げるきっかけとして聞いてるだけなのに、下手に体裁を取り繕って聞かれた事に答えようとするからややこしくなる

 

一見それらしい事を理由にして断りを入れてるようだけど、ごめんなさい貴方とは仲良くなりたくないんですって、拒否されてるのに気づかない人も案外多いんだから、それなら回りくどい言い方せずに、最初から素直に思った事をはっきり言葉にして伝えたらいい。

 

それが面倒くさいならブロックしてお互い目に触れないようにすればいい。

 

本当は絡む気更々ないのに、中途半端に気怠く接し続けるのがSNSにおける人間関係の中で1番罪深いだろ。

 

 

何もSNSに限った話じゃなくて、本音と建前のバランスがめちゃくちゃな人結構多い気がする

 

相手の話し方とか話す内容、態度や雰囲気からある程度は察せれるし汲み取れるんだから、ナイーブな話とか、聞かれたくなさそうな事さえ根掘り葉掘り聞かなきゃそれでいいと思うの

 

 

そこまで偉そうに言うならお前は初対面の人間といきなり仲良くなるための深い話ができるんかいって言われると、それはまた難しい問題になるんだけど…。

 

SNSのお陰で簡単に誰とでも繋がれると言えども、今の今まで赤の他人同士だったのは確かだから、年齢や身分など関係なく、相手に対する礼儀くらいは必須だと俺は思ってる。

 

でもSNSはその性質上、フランクさが良しとされる節があるから、礼儀が正し過ぎるメッセージも話しづらいとなって敬遠されがちな気がする。

 

 

けれども俺は何年も付き合っていくくらいの心積もりで愛情を持ち、礼節を持って話さないと中身がない虚無の会話が続くだけで時間の無駄だと思ってしまうから、気になる人が見つかって勇気を出してフォローしたとしても、おいそれとメッセージなんて送れない。

 

 

メッセージのやり取り自体はたった数分だとしても、積み重なれば何時間にもなるし、ずっと仲良くしていく気が最初からないなら、なんて返信するか考える時間でシコって眠った方がマシだと思いませんか

 

貴方みたいなお下劣な人間がいるからまともな人間まで巻き添えを食らうのです。

 

DMを送ってくる男=尻が真っ赤になった猿だと決めつけられて🐒

 

話したいだけなのにヤリモクだと思われて不必要に警戒される

 

クソ喰らえ

 

 

何のためにSNSで不特定多数の人と交流してるのかは人それぞれだから一概には言えないけど、暇潰しで、または性欲で、自分の抱えてる何らかの不満を解消したいがために人様を好き勝手良いように使えると思っている人がいるなら、傲慢が過ぎるというか、人間って我が強いんだなって、自分さえ良ければそれでいいの精神天晴れって感じで、もし自分がそんな人間とご対面してしまったらって考えると背筋が凍りつきますね。

 

お互いの目的が一致しててwin-winならそれでいいのでしょうか?

 

そんなのどう行き着いたって

結実は虚無しか有りはしないと思いますが

 

せっかく人と人が繋がったのなら、掴むのは虚無の幸せなんかじゃなく、本当の人生を充足させ、これ以上ないような満ち足りを得るために、いつまでも続いていくような深い付き合いがしたいのです。

 

一期一会って言葉、なんかあんまり好きじゃないけど、きっと俺が言いたいのはそういうこと

 

 

うーん、でもこれで締めたら自分の感じた事が上手く伝わりきらないな

今日はまだまだ話が長くなりそう

 

 

飽き性なのか何なのか知らないけど、どうもSNSに毒されている人間は1人1人の人間を大切にしなさ過ぎる。

 

だから平気で心無い暴言なんかも吐けるんだろうな

 

何を基準にして人1人を蔑ろにしてるのか分からないし、分かりたくもないから考えないけど、

 

貴方、相手の事をとやかく言えるほど自分の事も相手の事も大して知らないでしょ。

 

人間を知るには一朝一夕には絶対にいかない。

 

ほとんどのリア友だって最初は探り探りで少しずつ時間をかけて打ち解けていったでしょ。

 

学校生活やアルバイトだったりでほぼ毎日同じ人と接する機会があって、あれだけ友達作りに適した環境が整ってるのに、2人きりで遊びに行けるようになるまで何日もかかるでしょ。

 

何回も遊んで漸く相手の人となりってものが分かってくるはずなのに、どうして名前も姿も育った環境もよく知らないような人を"これ以上連絡を取り合う価値がない人間"だと、ほんの少しのメッセージだけで判断できるのだろう。

 

たわいもない会話を数ラリーしただけで弾まない面白くないだとかで話が合わないって早計に決めつけて、「これからも仲良くして下さい♫」みたく思ってもない言葉適当に並べて強制終了フェードアウト。

 

複数人同時進行形式でこんな平坦なやり取りをしたところで誰1人として仲良くなれるはずないでしょうに。

 

SNSから始まるなんちゃってお友達作りは質より量が鉄則なんでしょうか

 

僕は1000人の実体ないフォロワーよりも10人の生身ある人間を愛したいです。深く繋がりたいです。

 

 

ダメだ、纏まらない。

なんかずっと同じこと言ってるな…

でもめげずにもうちょっと脳みそかっぴらいて頑張る。

 

 

長々と要領を得ない話し過ぎて、飛ばし飛ばしで読み進めて今北産業みたいになってる人もいるだろうから、雑に3行で話を締め括るなら、

 

俺はSNSを使って、何十年も繋がり続けていけるような、親友レベルに仲良くなれる人との出会いを見つけたい。以上。

 

…になるけどじゃあどうやってその親友を作る?

 

ネットのみで完結する交流で、親友並に仲の良さを深めていくには少なくとも3年はかかる気がする(根拠なし)

 

会ってみたいねって話になっても距離があるだろうし、そう気軽には合えないのが通説だから、石の上にも3年どころか海の下にも3年だよ(は?)

 

ちょっと疲れてきたからふざけ出してしまってるけど、互いが相手を思いやって親身になって話さないとネットだけの関係なんて2ヶ月も持たず潰えるよねきっと。

 

少なくとも俺はそう思うから、仲良くしたい人とはより一層思いやりの心を持って接するようにする。

 

節操ない考え方だけど、単純計算で3年に1人のペースで親友ができるとする。

そしたら30年後には10人の親友が日本中、いや世界各地に居ることになる。

 

そう考えるとSNSも捨てたもんじゃないなって思える。

 

これが俺なりに思う、良いSNSの使い方ね。

 

 

10人の生身ある人間を愛したいなんて勢いに任せて言っちゃったけど、何も今すぐ10人全員愛したい!って言ってるわけじゃないのよ。

 

心臓一つ 人間一人、浮気なんて当然できるわけないし、気安く親友認定!なんてのも相手に失礼過ぎるから、人生かけてそれだけの愛したいと思える人と出会えたら幸せだなって話。

 

っていうか生涯で愛を捧げられる人間の総数って目安としたら大体10を少し下回るくらいかなって思ってて、誰かのために命を捧げてもいいと思えるほどの愛って、同時に何十人分も切り分けるのは絶対に無理だから…ん、待てよ…ひょっとしたら手の指の数が左右で10本なのって、最後に愛し合って笑って手を繋いでられるのは9人って決まってるからなのかな

 

誰の指も余ることなく最後には皆んなで手を繋ぎ合えたら、地球全体が1つに繋がって幸せの輪になってめでたくハッピーエンド。

 

10本なのになんで9人って、あとの1本は自分への愛の為に残しとかなきゃ、自分を愛せない人間が他人を愛せるわけないから、自分への愛は言わずもがな親指で、伴侶はもう片方の親指。

 

 

なんかどんどん話が逸れてくな…

俺はアンチSNSだ!から話し始めてまさか親指は自分への愛の為に残して〜なんて意味の分からん話になるなんて一体誰が予想しただろうか。

 

でも今ポジティブな発想で言葉を紡げてるからいいんです。

 

そのうち愛する人が家族になったら、家族以上の存在になれたらって考えただけで至福極まれり。

 

いずれ愛する人との間に新しい生命の息吹が芽生えて、やがて息子となり娘となり最愛の子供たちからも愛されるようになったらそれだけで世界なんていとも簡単に4原色に見えてしまうに違いない。

 

万が一独身のまま生涯を貫いたとしても、退屈な人生の中に刺激と彩りを与え続け合える親友を大切にして、何十年も話し続けたいし会いたい。

 

親友が結婚したら兄弟の結婚以上に祝福したい

 

親友が先に死んだ時は親の死以上に悲しみたい

 

親友とどんな辛い事も些細な喜びすらも分かち合っていきたい

 

親友は常に連絡を取り合わなくたって、決して存在を忘れはしない

 

たとえ一時のすれ違いから離れ離れになっても心の奥底には必ず君がいて、ふと久々に話たくなって、2年ぶりに連絡を取ってみたら、あの時あんな事あったよねって、自分の事なのに今の今まで忘れてたしょうもない話まで覚えてくれてて、2年も空いたとは思えない親密度で仲直りしていつまでも飲み明かせるのが俺の思う親友の定義。

 

欲を言えば、いつかお互いの夢を語った時があって、そういえばあの夢叶ったよって熱い抱擁を交わせたら良いな。

 

 

ずっと理想論ばかり語ってるけど、現実を見るなら、もう手遅れだけどリア友も大切にすれば良かった。

 

学生の頃はなぁんも考えてなくて、というよりこういうのは浮世離れっていうのかな

 

世間とかどうでも良くて、周りにすら無関心で、もはや感情がなくて、つまらない人間だったから、友達との関係すらその場しのぎで、

 

毎日のように顔を突き合わせて学食のゴムみたいな質感の唐揚げに必死に食らいついてたあいつが今何してるかなんて知る術がないし、

 

そんな時間ないのに昼休みの間にバイク2ケツしてこの辺のラーメン屋全制覇しようぜって変なところで息づいてたあいつなんてさっきまで存在すら忘れてた。

 

自分自身の歴史を振り返っていくと、生涯付き合っていきたいと思いながら接した、接してくれた友達が居たかは正直怪しい。

 

俺は友達だと思っていても、ネットどころかリアルでも俺のことを友達なんて思ってる人間は1人も居ないのかもしれない。

 

電話帳は親族のみ、LINEは友だちの欄がスクロールなしで全員分見渡せるってだけで、

あ…察し。

 

つい最近までは別にそれでいいと思ってた。

(半分は強がりだけど)

 

根暗じゃなけりゃ自分から積極的に遊びにも誘うし、友達作りにも勤しんでたんだろうな。

 

卑屈になってくると面白みもない低俗な話ばかりの飲みに誘われるなんて溜まったもんじゃないし、ひっきりなしにLINEやらインスタやら誰かしらのメッセージの通知が来るなんてあり得ないって思うようになってくる。

実は今もちょっとだけそう思ってるの、良くない。

 

本当は羨ましいよ。

沢山の人からあそぼって声かけてもらえるなんて。

 

 

まあとにかく、曲がりなりにもいろんな出会いがあったけど、殆ど知らぬ間に消えて居なくなってるから、俺は誰かの大切にしたい人間にはまだまだなれてないんだなって思う。

 

他人を頼ったり依存するのが下手くそで、なんでもかんでも自分中心の世界で居すぎたってのも多少あるだろうけど。

 

孤独死は嫌だから、死んでも誰かの心に残り続ける人間になれるよう自己研鑽を重ねていくしかないねこりゃ\\\٩(๑`^´๑)۶////

 

光を放ちたいとまでは言わないけど、せめてなんか惹かれるんだよなこの人って思われる程度の人間にはなりたい。

噛めば噛むほど味が出るクセのあるやつ的な。

 

 

いやー、もっと早く仲間の有り難みに気づいていればなぁ。

 

もし学生最後の日に戻れるのなら、卒業式と書かれた看板の前に突っ立って、怠い面持ちで気恥ずかしそうに写真を撮るだけじゃなく、なんの余韻もなく、後ろすら振り返らず散り散りになっていく青い春を共に過ごした数少ない仲間達の肩をガッと掴んで一言、最後くらい飲みに行こうぜって声をかける。

 

花咲いた思い出話をつまみにしこたま酒浴びて、お開きの前に、10年後またこの仲間でこの店に集まろうぜって涙ぐんで誓いの酒を交わす

 

同じ仲間でそれを繰り返す

20年後も30年後も何十年経とうが死ぬ迄ずっと。

 

 

こんな話してると余計仲間欲しいね。

過去に戻りたいね。

 

人間を堕落させるクソみたいな資本社会が嫌すぎて、堪らず逃げ出したら懲役社会不適合者の刑に処されてしまったから、仲間すらいないのよ。

 

 

SNSで承認欲求を満たすことに執心してる人間って、気心知れるリアルな友達が居たとしても、きっとどっかで変わり者扱いされてて、疎外感から真に分かり合える人間を求めて果てしないネットの海を彷徨ってるんだと思う

(自分自身の実体験でそう思ってるだけだから、もし気を悪くしたなら他人の戯言だと思って聞き流して下さい)

 

 

やっとこさ話をSNSのほうへ戻せる。

 

Instagramではかたじけないことに900人も俺のことをフォローしてくれて、

(そのうちの半分はbotと人間不在のアカウントが残ってるだけなのかもしれんけど)

 

数だけみりゃ何百人の人間と繋がれてるように見えるけど、dmでやり取りした事がある人なんて片手で数えれるくらいしかいない。

 

それも常にじゃなくて、たまーにね。

基本は無風のダイレクトメッセージ🥱

 

相手がどんなSNSの使い方をしていようが、結局は自分から声を掛けていかないと実りある出会いは始まっていかないので、これからは口先だけじゃなく、神風を吹かせていくしかない。

 

あーしんど、これで概ね言いたい事全部言えたかな

 

 

こんな脈絡のない心の中の走り書きを最後まで見てくれている人が居るのか分かりませんが、そろそろ別れと出会いの季節が始まってゆきますので、どうか皆様、一期一会の出会いを大切に。

 

 

お前はもう死んでいる

 

 

精神的苦痛とは、受け身だからこそ起こる

 


日々の繰り返しの感情

 


小さな死の模倣

 


否、死を考えることは贅沢だ、死に憧れるのは生より易い。

 


苦痛を知らぬ、黄金時代への回帰を試みる。

 


学園復帰。

 


俺は久しく出発という言葉を忘れていた。

 


「お母さん行ってきまーす」

 


まだ汗も噴き出さない、初夏というには早過ぎる火曜4限、水泳の時間

 


全身でプールの水中を掻き乱す

塩素が身体中を纏い盡す

地獄の終わりを告げるチャイムが鳴り、

洗眼器(今は無き時代と共に消えた産物)からか細く飛び出す水道水で目を洗浄する

 


独特な臭いが充満した湿り気のある薄暗い更衣室

硬く冷たいコンクリートの地面を形どるように、級友達の素足が砂埃を取り払ってゆく。

自分もそれに続かなければならないのかと思うだけで、給食への食欲が消え失せる。

濡れた足裏のザラザラとした感触が、想像以上に不快でいっそう堪える。

唇の血色など疾うに失い、薄タオル1枚に暖を求める。

痩せ細った身体をまだらにほつれた毛糸どもが雑に迎えてくれる。

水分を含みズッシリと重たくなった水着を地元のスーパーのレジ袋に包んで仕舞うことに小3ながらみっともなさを感じる。

 


薄手の制服(下は短パン)を着ても当然冷え切った身体の体温は戻ってこない。

少しでも身体を温めようと、筋肉を小刻みに運動、つまり歯をガタガタと鳴らし、廊下のひんやりした空気に身悶えながら、やっとの思いで教室へと戻り、乾き切らぬ髪の毛に不服のまま、国語の授業が始まってゆく…

 


微かに残る少年の記憶。

あの頃の自分は、この一瞬一瞬を苦痛と受け取っていたのだろうか?

 


否、生きるということが現在の自分の繰り返し以外の何ものでもなかった。

 


生きることに疑問さえ抱かず、死の臭いにすら気付いていない。

 


僕が初めて目にした死は、夏休みに入って、祖父の家の庭で捕まえたトンボに紐をくくりつけて遊んでいた時、(今振り返ればかなり虐待的な酷い遊びだ)何でそうなってしまったのかまでは忘れてしまったが、トンボの頭が取れてしまった時だ。

 


余りにもショッキングな出来事を目の当たりにして、それまで泣き叫んだことのなかった静かな僕の心が、かなりの時間大泣きをやめなかった。

激しい感情が涙腺を突き動かす、初めての慟哭。

紛うことなき悲涙。

 


そばに居た父親に縋るように

「トンボを治してくれ」と懇願した。

 


父親に絶大な信頼を置いていたのだ。

 


「治せるわけないよ」

そう言って楽しそうにヘラヘラ笑っていた父親に、僕はまた大泣きした。

 


どうやら父親は神様ではなかったようだ。

 


それからというもの、父親の運転で車を走らせ出かける時は死を意識するようになった。

 


不幸が起きて、交通事故に遭うかもしれない。

 


お出かけを楽しみにしている反面、必ず悪い予感も一緒に頭によぎってきた。

 


だから出発前は空想の神様に願うようにした。

 


「どうか家族全員、無事にお家へ帰れますように」と。

 


一方、夜風に当たりながら父の漕ぐ自転車に乗ってうたた寝するのは好きだった

対向車のヘッドライトが眩しくて、父の背中で目を背けた

家まで10分と掛からないのに、帰りの道はやけに長くて、何時間にも感じた

何度も眠気に襲われ、明かりの灯る騒がしい御堂筋で目が覚める

改札から湧き出てくる、死の匂いが立ち籠ったサラリーマン達を見て、なりたい大人になりたいと思った

あれから数十年が経つ

なりたい大人にはなれたのでしょうか

 

 

 

 〜 9歳の君へ

俺はその後、四半世紀にも満たない人生経験で、何一つ加えることができませんでした。

あるとしたら精神的苦痛への受容と微かな希望への看過だけです。 〜

 


そうして成人し、歳を重ねた今でも生きることに受け身になっているのは、仮に死への恐怖からなのだとすれば、それは大人になり切れておらず、子供染みているだけなのだろうか?

 

しかし、大人として、不要不急な行動をしなければ死ぬリスクを抑えられるという、ある意味で凝り固まった思考が積極性を絶っている事実をどうしても否定できない。

 

 

先日、ドライブに誘った友達にこう言われた

「昨日トラック2台に挟まれて軽がペチャンコなったニュースやってたやん、あれ見てドライブ行くん無理やわ」

 


ああ、大人になるということは、安全志向第一で、所詮空想でしかないものに怯え、堅実に生きることなのだ。

 

なまじ考え事が得意になったばかりに、要らぬ空想までしてしまうのが大人なのだ。

 


そりゃありもしないとは言わないが、ニュースと同じような事故が自分の身に起きる確率なんて、車に乗ることをリスクと捉えてドライブを避けるには馬鹿げている確率でしかない。

 


そうやって、自身の行動を狭めていく。保身に保身へとひた走り、危険を冒さないように、無難が1番だと勇ましげに言い張る。

 


世間が「大人」と呼ぶ、つまらない人間の完成だ。

 


俺があの頃なりたいと願った大人とかけ離れた「大人」へと、自分自身が染まってしまっていることに恐怖する。

 


そうして俺はそれを「死の模倣」と呼ぶようになった。

 

自責の念を込めて。


忌み嫌い、主体性を持つ意識を忘れないが為に。

花とコーヒー

HIKAKINと対談した時の話を一部抜粋

 

HIKAKIN

コーヒー飲むのは好きだけどそのためにわざわざ歯磨くのだるいなあ〜\シャコシャコ/

 


HIKAKINレベルになるとそんな小さなだるいが悩みになるんだね笑

羨ましいよ、俺が常日頃思ってる、生きるために働くのだるいなぁ〜と比べると。

 


HIKAKIN

いやいや、比べる所が全然違うでしょうよ笑

まず"生きる"って主語がデカすぎな笑


主語をデカくして自分の言いたい事の本質をぼかさずに明瞭にしてみようよ\ブンブンハローYouTube/

 


はぁ?笑

意味わかんね、HIKAKINは老若男女の多数の人間からチヤホヤされて、お金も使い切れないほど稼いで、自分の好きなことを仕事にして、楽しく生きてるんだから、そんな悠長なこと言ってられるんだろうね

 


HIKAKIN

…つまり、君は、不特定多数の人にチヤホヤされたい、お金持ちになりたい、自分の好きなことして好きに生きたいと思ってるんだ

 


……

いや…全然違いますけど…(なんで違うんだろう…?)

 


HIKAKIN

コーヒーなんて必需品でもないし、あくまで嗜好品なんだよ。

好き嫌いもあって、そもそもコーヒーを飲めない人もいる。

コーヒーが好きでも、歯磨きをほったらかして歯が黄色くなっても構わない、見た目に気を遣わない人だっている。


(僕は人に見られる仕事だから歯は真っ白じゃないと論外。

だからだぁいすきなコーヒーを飲み干した後、編集よりも何よりも真っ先に、数万円した最新の超ハイテク電動歯ブラシで30分は歯磨きするけどね笑)


でも生きるってことは生物である以上、必須の事柄だよね。

それなくしては生命として活動できない。


なのになんで"コーヒー"と"生きる"が比較の対象になるなんて思ったんだい?

 


別にそれ自体が対象になるなんて思って話してねーよ!

好きなもののために、したくもないことしないといけないなんて、おかしいじゃないか。


それなのに、不本意なことしてでも、自分の望んでいることをやめられないのが、何となく似てるなって、概念の話でそう言っただけだよばーか!

 


HIKAKIN

君は生きることを望んでいるんだ

 


望んでいるってわけじゃないけど…(ん?…俺がさっきから言ってる"生きる"ってなんだ?)

 


HIKAKIN

君は贅沢過ぎる。所詮私欲にまみれたくだらない人間なのか、君も。


そのめは何のためについてるんだい?


言っとくけど、君の知らない世の中では、生きたくても生きられない、心の底から生きることを望んでいる人たちで溢れているんだよ。

貧困、病気、戦争、いつ死んでもおかしくない境遇にさられている人たちが今もなお、どれだけ苦しんでるかなんて考えたこともないんだろうね。

 


それは、そうだけど…(だってそれは俺の問題じゃない、世界の話だろ、俺には何も関係ない)

 


HIKAKIN

はぁ〜なんだろ、君の話を聞いていると「俺」「俺」ばっかりで疲れてくるね。

自分のことばかりしか、頭にないから、生きる「ため」なんて、そんな風に考えてる今の自分がどれだけ幸せなのか、気づけてない頭お花畑も大概にしないと、君の狭い視野の中でしか見えていない世界はさぞかしお花畑で広がってるんだろうけど、本当の、真実世界の大半は、枯れ果てた荒地みたいなものなんだよ。

(そこに必死に新たな生命を植えようと無駄な努力をしている人達もいるけど今は言わなくていいか)

 


つまり、俺は俺として生きてはいけないって言いたいのかよ。

 


HIKAKIN

いや、もっと自分中心に生きるんじゃなくて、少しは世の中を見て考えて生きようって話。

そもそも世の中がないと今の君は生きれていないんだから。

当然過ぎて意識できてないんだろうけどさ。

今の世の中が当たり前と思ってはいけないよね。不変的なものでもない。この瞬間も絶えず移り変わっていっている。

歴史を振り返れば分かるようにね。


ひょっとしたらさっきまで当たり前だったことが、明日には当たり前じゃなくなるかもしれないんだ。

 


世の中にいる俺…?ってのは…とても知りきれない広大な世界を前提としていて、俺は俺であって俺ではない、この世界、つまり社会の巨大な集団の中の一塊の一部分にしか過ぎない…今まで考えてた「俺」という意識は、あくまで木を見て森を見ずでしかなかった…ってことなのか…?

 


HIKAKIN

残念ながら。世界から見れば、君は大陸が国家として分立した後の世界の、何番目の国の何番目の町の、何番目の人間として割り振られた、差し詰め、人間No-58.12億〇〇番でしかない。


君は何ら特別な存在じゃない


所謂コーヒーの方が、矮小な君の存在より何億倍も価値があるんだよ。


君目線からすればコーヒーこそが矮小なものに見えるだろうけどね。


コーヒーはコーヒーとしてしかありえない、必要とされている替えのきかない存在で、そしてこの僕、HIKAKINも、HIKAKINとしてしかありえない、今日も僕の動画を楽しみにして生きている人がいて、待ち侘びている人がいて、その人たちのために今の僕はいる。

文字通り「生きて」いるんだ。いや、僕は社会に、この世界に「生かされて」いると言ってもいい。


それに比べてどうだろう。君が今、死んだところで、君の価値の消滅を嘆く者なんてせいぜい肉親くらいだろうね笑


それって悔しくないかい?


やりたくもないことをして必死に社会のために働いて生き抜いたのに、君の生きた人生ノートには、「よく頑張りましたね。」って誰からもハナマルを押して貰えない。


死ぬ最後も死んだ後も、君の存在した世界から見向きもされない。


いわば道端のコンクリートの隙間からひっそりと咲く一輪の花。気付かれることなく、無惨にも踏んづけられ、儚く散っていく。虚しくも、散っていく。それだけ。


考えてみてよ。それこそがだるい、というか辛いことじゃないかな?

 


……悲しいよ、嫌だ

 


HIKAKIN

嫌でしょ。自分をこの世界の確固たる存在にしたいでしょ。


厳しいようだけど、今のままだと君は君が言う「俺」を俺たらしめることができないんだよ。


もし、君が価値ある存在だと社会から認められるようになれば、自分は特別な人間なんだと、自惚れにも程がある自意識を内在だけに留めとかなくても良くなるんだ。


君の肉体が文字通り死んだとしても、君の存在は、歴史の中に刻まれる。


すなわち君の自惚れが現実になる。

社会の巨大な集団から独立した、替えのきかない、特別な1人の人間になれるんだ。


それこそが人間として「生きる」ってことだと、HIKAKINとしての僕は思ってる。


まあ、スーパーでアルバイトしてたそれまでの僕は今の君と同じで、働くのだるいな〜って毎日思ってたんだけどね笑


その時はよく分かってなかったんだよ。

自分のことも。

社会のことも。

世界も。

生も死すらも。

分かっていたのは、食べなきゃ死ぬ。寝ないと死ぬ。そのためには食べ物が、安心して眠りにつける寝床が、食べ物と寝床を確保するためにはお金が必要だから、仕方なく、スーパーでアルバイトしないといけなかった。


なんで働かなきゃいけないんだよって不平不満垂れてね笑


ずっとこんな生活して生きていくのかなって、将来が不安だったから、不安を掻き消すために、毎日、目の前にある小さな楽しみを無理矢理にでも頑張って見つけて、

(その楽しみが女やラーメン、漫画だったんだけど、今思えばくだらないな笑)


騙し騙し生きてたんだけど、ある日、いつの間にか空虚と化し、自己を失っていた自分が事切れてね。


「お前、本当は女もラーメンも漫画もどうだっていいだろ。いつまで自分を騙してるつもりだ?」


そう言って僕の中の自我が、直接語りかけてきたんだ。


「別にこれがしたいわけじゃないけど、今を楽しめてるんだから別にいいだろほっとけって私を、自我を追いやって、せっかく人間として生を授かったのに、どうでもいいことで妥協し続けて、感覚を麻痺させて、終いには殺していって、満足した。悪くない人生だった。って錯覚して死んでいってもいいのか?

私は情けないと思う。自分で自分を軽蔑するね。」


僕は答えた


「嫌だ!これ以上"どうだっていい"で生きていきたくない!こんな毎日が続く将来なんて嫌だ!好きなことやって生きて、それで食べれなくて、寝れなくて、死ぬのならそれは本望だ!」


そうして始めたのがビートボックスってわけ笑

 


何、言ってるんだよ、もうやめろ、聞きたくない

 


HIKAKIN

君も昔の僕と一緒で、働くのが辛いようだけど、まずは今君が咲いている場所で、自分以外の誰かたった1人でもいい、アナタじゃなきゃダメなんですって心から必要とされて、たとえ生きるのが嫌になって、もう死にたいと思っても、誰かに生かされ続ける自分であれよ。


ものは言いようだけど、君は働いている限り、その社会の中では「花」なんだ。

仕方なく、不本意で働いてるようだし、今は咲き誇ってないだろうけど。


でもまだ遅くない。

「花」である限り、水さえあれば潤い、花開く時が必ず来る。


困ったことに、その"水"は待っていてもやってこないんだけどね。雨さえ降ってこない。現実は君が思っている何倍も残酷なんだ。


耐えられないのが現実だ。だから騙し騙し生き

ていくのも分かる。理解できる。それも生き方の一つだ。それが僕の過去の生き方だった。


でも、立派な生き方とは到底言えないって気付いたから、現実と真っ向から勝負して、何とか耐え凌いで、有り難い事にこうして日本の超大物YouTuberとして大成できた。


さっきも言ったけど、そもそも真実の世界は枯れ果てた荒野みたいなものなんだ。


井の中の蛙大海を知らず状態の君が、自分中心の世界を離れ、次第に他者から必要とされるようにもなり、いずれ、枯れ果てた荒野に辿り着けたのなら、自ら働き続けたくない場所を脱しても、どこのどんな地でも自分の好きなように生きて、咲いていけるようになる。僕のようにね笑


そして時が来れば、枯れ果てた荒野の中にオアシスを見るようになる。


好きなだけ"水"を汲めるようになる。


そのためには、狭い狭い世界で生きたまま、自分の眼前に広がっている綺麗な世界が全てだと思い込むんじゃなくて、臭い物には蓋をするじゃなくて、本当の残酷から目を背けない。


自らの力で、知恵を働かせ、進んで行動して、どうにかして"水"を確保しなければならない。


降ることのない雨を、恵みの雨を信じて、天に向かっていつまでも口を開けて待っていたら、

いずれくるのは悲惨な「枯れ」だけだ。

それだけが現実だ。


ちなみに僕の"水"は、今となっては沢山あるけれど、その水をやるジョウロの役割の1つになってるのが、実はコーヒーなんだよね笑


さて、ここで改めて問おうか。


君は、君らしく生きるために何を望む?


"本当の君"が正真正銘好きだと感じるのは、一体なんだい?


僕はコーヒーを飲むのが大好きさ\ブンブンハローYouTube/

脈打つ

哺乳類は心臓の鼓動を20億回打つと死ぬそうである。

 


それでも俺は、死ぬまでドキドキしていたいと強く願う。

 


つまらないものなど切り捨てて

 


"大切"を出来るだけ多くそばに

 


鼓動をはやめて

 


自分の命を上手に使って、生きる喜びを

 

 

 


墓無「なーんて肩っ苦しく言ってるけどさ,俺ももう,最後に鼓動が高鳴ったの,いつだったかすら思い出せないんだよね〜。」


「あまりにも…"つまらない"に慣れ過ぎてしまった。」

 

 

 

◻︎◻︎「人間はどんなことにもすぐ慣れる生き物らしいからな」


「意識しねーとその違和感にすら気付けねーなんて,タチ悪いよほんと」

 

 

 

墓無「だから…近々,飲み会を開こうと思う!」


「話し合いをしようじゃないか。」


「テーマは『最近感じた,自分の本能』について!」

 

 

 

◻︎◻︎「う〜ん,ま,それは良いんだけどさ,お前友達いねーじゃん。」

 

 

 

墓無「…あぅ」

「本日」

時々,その日の出来事の中で感じた事,思いついた事を,頭の中だけのものにしたくない,忘れたくないと思って,日記的,というより只の散文のようにババっと書く時があるが,

 

毎度の事,言いたい事が上手く纏まらず,スッキリしない。

 

そんでもって,続きを書くのを放ったらかしにしてしまう。

 

一応,自分的には,取り敢えず忘れない内に,これだけは忘れたくない,という頭の中の事を走り書きし,書き損じてはいないので,纏まっておらずとも,まぁ良しとしているのだろう。

 

だが後になって読み返すと,どれも話が途中でブツリと途切れているので,気味が悪い。

 

何が言いたかったのだ?

と,書いた自分でさえ,解読不能な散文が多々ある。

 

要は"未完の日記"だ。

 

日記とは一日の,その日の締めくくりをする為に書くものでもあると思っているので,未完で終えているのはどこか変な気もする。

 

でも,別に未完でもいいのかも。

 

寧ろ,未完だからいいのかも。

 

何故,取るに足らない一日の,つまりは整合性の何一つ取れない,歪な毎日を書き記す事に,完璧を求めようとするのか。

 

朝目が覚めて,ベッドから起き上がる時に,今日はこういう日になれば良いなと,漠然と一日の自分を思い描いていたとしても,

 

夜になり,ベッドで目を瞑りながら今日の出来事を振り返れば,全てが思い通りだったな,なんて思えた日など,一日足りとも存在しないのに。

 

そもそも別に,完璧に過ごせている,などと自負をして,一日一日を生活しているわけでもないのに。

 

そこに,己のくだらない人間性のようなものを感じざるを得ない。

 

つまるところ,死してでしか完成し得ない,その人生の歪さに落胆しているのだ。

 

纏まりを得るには死ぬしかないのだ。